南坊宗啓

紹鴎、わび茶の湯の心は、新古今集の中、定家朝臣の歌に 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ この歌の心にてこそあれと申されしとなり。花紅葉は即書院台子の結構にたとへたり。その花もみじをつくずくとながめ来りて見れば、無一物の境界、浦のとまやなり。花紅葉をしらぬ人の、初よりとま屋にはすまれぬぞ。ながめながめてこそ、とまやのさびすましたる所は見立たれ。これ茶の本心なりといはれしなり。また宗易、今一首見出したりとて、常に二首を書付、信ぜられしなり。同集、家隆の歌に 花をのみ待らん人に山ざとの雪間の草の春を見せばや これまた相加へて得心すべし。世上の人々そこの山かしこの森の花が、いついつさくべきかと、あけ暮外にもとめて、かの花紅葉も我心にある事をしらず。只目に見ゆる色ばかりを楽むなり。山里は浦のとまやも同前のさびた住居なり。去年一とせの花も紅葉も、ことごとく雪が埋み尽して、何もなき山里に成て、さびすましたまでは浦のとまや同意なり。さてまたかの無一物の所より、をのずから感をもよほすやうなる所作が、天然とはずれはずれにあるは、うずみ尽したる雪の、春に成て陽気をむかへ、雪間のところどころに、いかにも青やかなる草が、ほつほつと二葉三葉もへ出たるごとく、力を加へずに真なる所のある道理にとられしなり。歌道の心は子細もあるべけれども、この両首は紹鴎、利休茶の道にとり用ひらるる心入を聞覚候てしるしをく事なり。かやうに道に心ざしふかくさまざまの上にて得道ありし事、愚僧等が及ぶべきにあらず。まことに尊ぶべくありがたき道人、茶の道かとをもへば、即、祖師仏の悟道なり。殊勝々々。